「不況」というもの

 最近はアメリカのCNNなどの放送を聞いても「Recession」や「Depression」。日本のテレビや新聞を見ても、「不況」の二文字が踊っているようです。
 もちろん、今私達がどんな場所に立っているのか、前提としてどんな影響下にあるのかを知ることができるのはとても重要で、知らない間に悪化して気づいた時にはペチャンコという事態よりはよほどフェアであり、問題解決的であるとさえいえるのかもしれません。しかし、日本語を母語としているためより鋭敏になるのか、英語の「Recession」(「後退」)や「Depression」(「下降」)に比べて、日本語の「不況」という言葉に経済活動の低下に加えて「不興」とよからぬ「布教」やら、なにかの「呪い」までこめられているような「暗さ」をつい感じてしまいます。
 なにかのトレンドのうち、すこしだけよい影響や副産物の方を多く生むものをブームと呼び、それと反対のものをパニックと呼ぶならば、両者の違いは実はほとんどなく、本質的な川の流れの「急なところ」をものの見方として切り取ったものであるにすぎないのかもしれません。
 けれど、その川の流れに何をのせて海まで運ぼうとするのか、堤防をどう築きその川の水で作物を育てるのか、あるいはその流れ自体にどんな色や音を感じるのかで人間の本質の一端が見えるようでおそろしい。「不況」という言葉にも派遣社員の急激な「解雇」と再就職難といったある意味では正当な救難信号に加えて、無意識あるいは意識的に自分の利害関係のある問題のなかで「不況」と近いものを何かの偉い人が解決すべき、自分では解決できない問題にまで押し上げて、マインド面で「不況」を再生産してしまう力が一部で働いてしまう気がしてなりません(その結果の事件発生等の社会不安)。それでもなにか自分にできることがあると信じて、探していきたい気持ちを今強く感じています。