a diversity

ボックスでない二人掛け座席の電車が懐かしい。最近首都圏の普通列車ではあまり見なくなりましたが、このシートのある空間は今も昔もロングシート(車両の窓側にのみ席があり、座った乗客は見合いになる)の空間よりもノイズに対して寛容な空気が流れていると思います。軽食を食べても弁当を開いてもコーヒーを飲んでもそして会話をしても許容されるのでしょう。この空間は控えめにいって日常の延長が、大袈裟にいって人の営みの中に存在しているような気がします。私が小学生だった頃、長い休みの唯一ともいえる楽しみが当時住んでいた八戸市(青森県)から祖母の住んでいた那珂湊(茨城県)まで、「はつかり」や「やまびこ」、「スーパーひたち」といった二人掛けや三人掛け席のある電車を乗り継いでいくだったのも、旅であるという高揚だけでも祖母と一緒にすごす期待だけでもなく、普段見慣れない人たちが自然に作る空気に触れる感覚のためでもあったように思います。
 先日、埼京線に乗っていて、私の座っている席の向かいに茶色の顔を覆うようなサングラスをかけたまだ若い女性がロングシートに腰掛けて小声で携帯で話していました。そこだけ切り出すとどんな公の場でも静かにすべき(していればよい)というおおざっぱですこし丈の合わない既製服のような倫理観にいつの間にかとらわれたり、乗車マナーと顔を隠していることの関係性から、匿名性こそがマナー逸脱を生むとの話に安易にからめとられてしまいそうであるけれど、この場合異なる事象が潜んでいるようでした。私の耳にはここ数年使い込んでいるBOSE社製のかぶせるタイプのヘッドフォンがついていて、アイポッドの音楽に集中すればいいというのも気持に余裕を生んだのかもしれません。けれど彼女のロングシートの車両ではみかけない行動が、複数の視線と視線が交差し絡まって作り出された緊張感やや人々がそれぞれ持つ領域が重なり合い、軋むような秘かな不協和音をふいにほどいて、時間が再び動き出したような効果を場に与え、まわりにいるひとたちも携帯をそれぞれ眺めたり、会話をしたりしていてかえって自然な場を形成しているのようでした。人間は無音でただ静かな空間よりもカフェで感じるように、ひとがおもいおもいに過ごす、比較的賑やかな環境で安らぎを得るのでしょう。反対に人が存在するのにただ無音で静かなだけの空間は意外に重く、冷えているのかもしれません。夜遅くシートで対面して座る見知らぬ人の視線をさけるためか、座る人々が一様に下を向いたり眠っていたりする車両に乗り込むと、この世発あの世行きでないかを確認するようにおもわず視線を外に向けたくなることがあります。また、ロングシートで逆に腰掛け身を乗り出して外をみる幼い子供をよく目にしますが、こちらの方がむしろ自然な行動で、その自然な行動をあえて規制しようとしても負担がかかったり歪みができたりして長続きしない、あるいは別の所にストレス反応があらわれてしまうもののようです。そういえばロングシートにだまって何もせずまじめに腰かけていると心なしか肩が凝ったり、体がこわばるような感覚があり、そして電車を降りるといつのまにかほっと息をはきそっと空をみてしまうことがあります。外部には空間が存在するのに視線を内部にむけると案外に狭く窮屈と感じることがあるのは電車でも同様。電車は確かに公の場には違いないけれど、公式行事に参加しているわけでも決められた仕事をしているわけでもないそれぞれの目的地に向かう個人が集う場所であるはず。電車内では必要もないのにフォーマルに畏まらず、カジュアルにすこし寛いで乗っていたいと私なら思います。
 混雑時など公共交通機関の人員輸送へのプレッシャーがすこし和らいで、電車が単なる移動手段や輸送手段から乗り物にもどる昼間や夜間くらいは、特急以外でも二人掛けシートやカフェ車両も走ってほしい、あるいは地方のフェリーのように部屋の中央にシートが配置され、まわりに空間のある車両なども走ってほしいと思ったのでした。