not cover but cushion

作家須賀敦子さんはエッセイ「大聖堂まで」のなかでフランスに留学したときの体験を次のように語っています。「はじめてのヨーロッパは、日本で予想していたよりもずっと厳しかった。言葉の壁はもちろん私を苦しめたが、それよりも根本的なのは、この国の人たちの物の考え方の文法のようなものへの手がかりがつかめないことだった。自分と同じくらいの年齢で、自分に似た知的な問題をかかえているフランス人との対話が、いや、対話だけでなく、出会いさえが、パリの自分にはまったく拒まれているように思えて、私はいらだっていた。大学での比較文化の講義の愉しみとはべつに、こればかりは自分の手でさぐりあてなければ、どうしようもない。シャルトルへの巡礼は、そんな気持ちのなかで、ひとつの抜け道になるかもしれなかった。」と。世界には、ある文化圏には、国には、地域には、民族、人種あるいは業界、企業にだって独自の文法やら文脈らしきものの集合が存在して、ある任意の場所を観察すると構成する社会的なものを背景として複数のそれらが注ぎ込み、絡まり、重なり、影響しあっていることが認められるのは大まかにいってきっと現実なのだろうと私も思います。あるいは、一つの出来事からみても、ありとあらゆる無数のデータベースや演算装置(頭脳)によって構成されるのがこの世界だとして、文法や文脈からみて出来事に対して納得性の高い感情なり、解決方法は確かに存在するのだと思います。けれど多くのひとが感じているように、最近のここ日本はそれまである場所においては安定していた(と見られていた)文法や文脈のまとまりや束の境界が薄れて混雑すると同時に、(事実の部分は変わらないとしても)これまで機能していた各々の衝撃をやわらげたり、仕組みを支えるクッションのようなものや柔らかく透き通っているベールのようなものが揺らぎ、私的なものと公的なものがむき出しでせめぎ合い、火花を散らすような高反応な社会になっているような気がしています。(公的なものも求められるものが増え、きっと負荷が高まっていると思いますが)これはこれまでも比較的人口過密でも成り立っていた日本の地域社会や共同体の種類やありかたの変化の流れが(ある一定の期間であっても)急激になっている過渡期的な現れなのかもしれません。人間はその歴史のなかで、自分の腕を工作機械に変え、脚は自動車に変換し、自分にない翼まで鳥から拝借して飛行機という乗り物にして世界を飛び回っているばかりか、耳や目を拡張して他の場所にアクセスしたり、記憶もデータベースという形で効果的に外部化することにまで成功しています。これは、相対的に世界が狭くなり、人口の増加とは別に過密になっていることを示していると思います。カエサルの「ガリア戦記」などを読むとその描写力や論理性は無論のこと、活躍した紀元前60年ごろから前40年代半ばでも現在の西ヨーロッパという広範囲な地域で「情報」を的確に収集、分析、活用していたことに非常に驚かされますが、それから2000年以上が過ぎて情報通信技術を発達させた時代にあって、「文法」や「文脈」に密接に関わる情報とのお付き合いの仕方が一般にどれほど「進歩」したのかは果たしてあやしい。通信技術の発達に頭脳をより調和させることはきっとこれからの課題なのだろうと思います。

追伸;一般的に「やり手」を自認するひとの中で解釈だけでなく、事実も都合よく操作できると暗黙に考えるひともいるようですが、恐さは感じながらも、無数の理性が介在する場合はそれはほんの一瞬の影響でしかなく、短期的にも中長期的にも無理がある感じています。フロー(流れているもの)だけで判断するのではなくあるものごとに対して一定時点で蓄積された時系列のストック(歴史)を参照し、新たに蓄積していく姿勢も情報や記憶手段の発達した時代にあって個々人の情報とのお付き合いにやはりとても大切と思っています。




ヴェネツィアの宿 (文春文庫)

ガリア戦記 (講談社学術文庫)