二百年後の昔話 第2話

どこまでも見透せるかと思うほどに澄み、その一方でとても深い色合いをした湖のほとりに、ある山桜の木が立っていました。その桜の木は湖のまわりのなだらかな地形やほんの少し背が高く、穏やかな姿をしているためか近くからはもちろんのこと、湖のほとりの他の場所からもよく見渡すことができ、湖の南側の街の様子や街人の楽しげで賑やかな声や乗り物の音なども、春にはつけた花びらに、それ以外の季節には葉や枝に映して、それとなく受けとることができたのでした。また、この桜は近年の何度かの台風のときにすこし枝をいためたのでしたが、かわらず近くを通る鳥や虫たちに木陰や止まり木などを提供するお仕事をしていました。
この木はじつはあるさほど広くない土地のほんの隅っこにあり、その地主は普段湖の方角やその植生などには見向きもしないのでしたが、この桜の評判やら噂やらをどこかで聞きつけたものか、「動かないくせにじつにけしからん。格好をつけて扇動しているのだ。それにこの土地でこんなにすくすくと育つからには誰かが商売のために肥料をやっているに違いない。」と思い、せっかくだから売り物の臼や暖をとる薪にしようと錆びついた鎌を持って桜の所にやってきましたが、何度歯をたててもさっぱり効き目がありません。そこで今度は、柵をめぐらせ、桜に肥やしをあげる人や写真をとる人、立ち寄る鳥や虫から引き離した上で決着をつけようと固く誓いました。そして、近隣に出かけていっては「うちのはじつはけしからん桜で、理も知らず、人が嫌いで商品にならない。格好をつけているようだから柵で囲んだ。」と伝えたり、近くの渡り鳥たちに「桜は鳥や街のことがどうも本当は嫌いといってるらしい。仲間や街や近隣の人に商品にならない桜のことを伝えるように。そうするときっと喜ばれる。けれどこのことは決して桜には伝えないように。」、また近くに立つ枝垂れ桜の木には「君だけにいうがあれは君よりも大きくなろうとしている。君も手段を選ばずがんばりたまえ。」と耳打ちしたり、はたまたある胡蜂には「君は桜の所にやってくる鳥に食べられてしまうかもしれないね。駆除してあげるから、桜を監視して報告するように。」といいました。また、桜は彼から「街のひとは桜をみるのが嫌いだそうだ」と伝えられ、灰色の気分になりましたが、幸い柵は桜の姿を隠すほどには高くなくも密でもなく、街から出発した湖の遊覧船の人々が皆こちらに手を振るのをみてだいぶ気持ちも落ち着いたようでした。地主は立ち寄る鳥や虫、高い所にある桜の花びらを撃ち落そうと長々とした銃をもってやってきましたが、いくら撃っても構え直してもさっぱり当たりません。そこで仕方なく銅鑼をならしたり、どこかの立派な桜の写真をこれみよがしに周囲に掲げてまわることを暫く続けました。けれど、桜はそれからも空から注ぐ日の光や、湖の方に静かに張った根っこからの養分でそれなりに健康でしたし、こっそり立ち寄るお友達の鳩やまだ子供の蜜蜂、街から風に乗ってやってくる美しい音色や街灯の初夏のような暖かい明かりによって花や葉や枝もきれいに映え、幹も支えられました。そしてお腹がすいているときには鳥が嘴で運んできた駕籠入りの蜜柑や、凍えるように寒い日には風が届けた彩りあざやかなマフラーさえも空に伸した枝でうけとることができました。桜はこれらの出来事を自分の枝と葉でそっと包み、むなもとの窪みのある場所に暫くそっとしまっておくことにしました。それでも、桜は窮屈なためか、街の人に会いたくなったものか、思案の末により住むのに適した土地を求めて旅をすることにしました。けれど、木にとってなにぶん移動するのは楽ではないようで、目立ちすぎたり、倒れてまわりに迷惑をかけないためにもゆっくりと気をつけて歩まざる得ません。そこで桜は手紙を書くことにしました。
〜手紙が届きますように。これまでも、そしてこれからも。〜