The devo11. an epilogue〜taking the air〜

その朝、彼は鳩を空に上げる前に、街角のビザ屋に立ち寄った。このピザ屋はテイクアウト専門で、手狭な店のカウンターのすぐ側に煉瓦で組まれた大きな窯がでんと構え、釜の内側では真っ赤に焼かれた薪が時より爆ぜては薄いピッツァの生地を赤々と照らしながら焼き上げていくのだった。店の小太りの旦那が窯から取り出したばかりの円いピッツァは、表面に溶けたモツァレラチーズが所々黒く焦げながら、まだフツフツいっていた。彼はそのマルゲリータを3枚ほど紙でできた袋にいれてもらい、切り立った城壁の側のベンチで鳩と食べた。
 「それにしても君はどうやって僕の所まで飛んできたのだい。」と彼が尋ねると、鳩は「僕は途中のひとが桜の木をめがけて飛ぶようにやさしく教えてくれたのだ。」と答えた。彼は『じゃあもしかして最初の日「チリエージョさん」と言ったのは』と言うと、「その通りだったからよかったじゃないか。」と鳩は即座に返した。彼は「そうだね。」と笑った。鳩が「その、動物の名前のようなものなら聞いていたのだけれど。」と彼を見ながら、くぐもった声で言った。彼は「それはきっとあの名前だね。じつはまだ直接そう呼ばれたことはないのだけれどね。傍聴してもしばらくの間は誰のことなのだろう、最近は変わった名前の人もいると思ったものだよ。でも綽名はひとがくれるものだし、すこしユーモアがある方が案外親しみやすいのかもしれないね。それに個性的でとても判別がつきやすいね。」と言った。人間と鳩は朗らかに笑いあった後、鳩は「僕は空にずっといるけれど、君はこれからどうするのだい。」と聞いた。彼は「首飾りの紋章のこともあるしね。こんな時は当分の間別の文化圏にいくのがひょっとすれば古代からの倣いであるのかもしれないけれど、僕の場合は難しい。当分家のまわりで静かにしていることにするよ。それでも君を見上げることもできるだろうし、君が空に浮かぶことができたら、君や君を見ることができる人に手紙を書くこともできる。それに鳥に慣れる為に密室に一時期籠もることも古典的な手法の一つではあるだろうからね。」と答えた。鳩は「けれど気をつけろよ。状況確認の為の戦略的な撤退にしろ、避難にしろ、一時的な隔離や隠遁であっても、理解してもらえないと単に的になるだけだよ。君の家にも鷹が既に入っているのだからなおさら。」と言った。彼は「そうだね。気をつけるよ。」と言った。鳩は「ある程度ならば防衛や浄化の作用があるにしても、過剰に鷹を取り入れてしまうと人間は見境がなくなるからね。無意識に自分で自分に鏃を向けることすらあるそうだね。そして起きている物事を狭い視野で捉えることによって、任意の関係性を想定しては矢を放つことがあるとすればぞっとするよね。君が既に知っているようにそういう状況では鷹は本来協力できる人とまで争う原因を作ることもある。しばらくの間は気をつけすぎることはないよ。」と珍しく重ねていった。彼は「そうだね。それに生き物は物事を一定で狭い範囲の事と思い、壁を暗黙的に重視しすぎると、目の前にあるものを操作できると過剰に思い込んでしまうこともあるようだね。そして、過度に操作しようとする行為はたとえそれがある単体に対して行われるものであってさえも、結果として複数の関係性に過剰かつ再生産される反発力を生む。それが一定の範囲内で複数に対し、ランダムに行われればなおさらだね。誤射や流れ矢を生まないためにも、当分は読書中心の生活にするつもりだよ。仮に現在ある領域で、あの鳥のうち鷹の方に勢いがあるとしても、無数の理性や愛情の介在や状況の上手な共有によって次第にその勢いを失い、本来の一定のバランスのとれた鳥に戻っていくのではないかと思う。もちろんそのためにも手紙を書くわけだけれどね。」と答えた。鳩は「他にも理由はあるのかい。」と聞いた。彼は「これから先はこれまでと少し違ったいき方をしたいから、その準備の為でもあるね。」と答えた。鳩は黙って頷くと「それから僕が浮かぶにしろ、経過や方向は逐次連絡してね。密室同様、空は案外寂しいから。」と言った。「方角や浮かび方、載せるものはのちほど皆で決めるのもいいね。そのことも手紙に書いておくことにするよ。いずれにしても連絡は必ずするよ。待っていてね。」と答えた。彼は塔に向かう途中、鳩とドゥオーモ近くの路地の奥まったところにある間取りの狭い宝石店に寄って、地中海の貝殻から採られた白くて丸い形をした耳飾りを一揃え買い、片方を鳩の左耳に、もう片方を紅茶色の辞書の奥底に大切にしまいこんだ。
鳩がマンジャの塔から空へと旅立ったその日、シエナの街には虹が架かっていた。
彼は鳩を見送った後、あの鳥についての彼なりの説明や気持ちを特殊な紙に記し、その手紙を丁寧に折り込んで小指程の大きさの小舟を複数造った。そして、彼が街から少し離れた古戦場と伝えられる大きなカルデラの湖の入り江についた頃には、既に夕闇が漂いはじめていた。彼がその小舟たちをそっと水に映すと、小舟たちは少しの間そこにとどまった後、流れにそってそれぞれの方角へ静かに旅立っていった。桜色のキャンドルとささやかな呪文を載せて。
空には幾分ふっくらした月と数えきれない星々、いくつかの浮かぶ鳥がいつの間にか顔をだして、湖水にむけて穏やかな灯りをそっと投げかけていた。



〜The devo 第一部 Fine.〜