an explanatory note for this blog

〜The devo 後書きのかわりに〜
学生時代、ヨーロッパにいった時だけ「何人かのハーフですか。」と聞かれることが多く、なにかの独特の社交辞令の類かとも思いながら、同時に自分の中でなにやら少しうっかり嬉しく感じることが、20世紀末まで暗黙に日本に漂っていた欧米重視の価値観に自分も影響を受けていることを素で認めるようで少し悔しかった。もっとも外国人が何人かを見分けるのは難しいのは、逆の場合も同様で、ローマで道に迷い、丸暗記のイタリア語で「某広場にはここからどう行くのですか。」と聞いたら、そういえば普通のイタリア人にしては少し背が高いように見えるそのご婦人は、「私がイタリア人にみえるわけ。」という顔をして、イタリア語で「どこからきたの。」と聞いた。私が「日本からです。」と答えると、「だったら英語で話しなさいな。」と言って「さあやり直し。」という仕草をした。よく見るとイギリス人であるようだった。親切に教えてくれたけれど、やはり何かに触ったのかもしれず、ルーツというのは思いの外、いや言葉通りに人の根幹に関わる感触なのかもしれないと思った。
 当ブログはこれからも時々、お話式でも書くつもりでおります。これは、言葉も写真も端的なものとなるブログならなおさら、ノンフィクションでは書く方も心情や信条まで書くことは気恥ずかしく、障りもあり、読んでくれる人にとっても案外イガイガしていて掴みにくい場合もあると感じられるからに他なりません。あくまで極端な例に過ぎませんが、最近の殺人事件の当事者でも別の事件を簡単に見ただけではああいう場合なら自分ならやらない、と思うこともあるではないか。事実であっても、フィクションであってもそれを理解するには想像力を必要としていて、お話の価値はその場所にもあると思うようになりました。もっとも私自身学生時代、外国の古典の翻訳中心に読み、それも岩波文庫の表紙のベージュとピンク色のラインが本棚にのびていくことの方を楽しみにしていた人間ですけれど。それでも日記形式だけがブログの望ましい姿ではないのではと個人的には思っております。
5月26日