The distorted and intricate arrows ChapterⅠ 11.an epilogue

目の前にすわる男、小杉の様子が心に強い警笛を鳴らす。「なにかにかかっているのじゃないか。」と千島は思った。策士を自認する人ほど自分の考えの及ばない部分からの策に罹りやすいものはない、とも千島は思う。一方ここ数日小杉の側にいてすることを手伝ってはいたが、「予定表はありますか。」「どんな範囲をヒアリングする予定ですか。」と千島が聞いてみても、「大丈夫。僕に任せておけばいいんだよ。」と小杉は必要以上に大きな声で胸を張って言うだけなのだった。一方で小杉はヒアリングでワークフローのシステムが完備されているところまで詳細に聞き出しては手書きでなにやら見本のようなおおざっぱなフロー図を背筋を伸ばして描く。まず仕様書や説明書がありそうなものだけれど、と千島は思う。千島は前の会社である企業の人事の受託の資料をほぼ数日かけて項目を読破していたけれど、そこに記されていた作業時間や工数や月次の書類の枚数といった数量的なものも、データの保存場所なども一切小杉は調べようとしない。その一方で小杉は時間をたっぶり使って、1時間以上ヒアリングをする。小杉の緩く思わせぶりな動作とその結果の重い空気に正直、千島は気持ちが悪くなる。社員や派遣社員も当然負荷を感じているようだ、と千島は思った。そればかりか千島が質問をしようとするのを手で制して、後で小声で「あまり刺激してもね、君。」と小杉は言う。小杉のスキルの問題か、それとも受託を前提とした故意による行為か、あるいは両方なのか即座に判断できないと千島は思う。北海道の研修時、小杉の部署が人事といっても業務のコアは採用の事務代行にあることも、そのシステムは別の人間が組んだことも千島は調べていた。それでも小杉は敢えて踊っているのかも知れず、いや踊ってスケープゴート役を務めることがR社側の振ったこの場合の小杉や自分の役割である可能性も十分あり、これはいずれにしても当分慎重に状況を見定めなければと千島は考えた。なにしろ、シニアマネージャクラスの人間が、困難なお役目ご苦労さんというような、少し哀しい目の色をして小杉や自分を、そしてフロアを横目で眺めてゆったり歩いていくのだ。それにしても受託した場合の運用を任せる旨外山にいわれている以上、これでどうやってアルバイトの人たちや業務自体を動かすものやらと千島はそっとため息ついた。何のための調査か。それに外山はじめS社側のこの案件に対する扱いとR社側のそれに、業務を出す方と受け取る方という立場の違いは当然あるにしても大きな温度差があるのを直感的に感じる。斬るのがやむをえず仕事であっても、その結果がともなわないようでは全く申し訳がたたない。それに受託後に運用で協力していかなければならない人々の心証をわざわざ悪化させることもどうかしている。また、小杉の刀が仮に竹光だとして、当の本人も中越さんというマネージャーもそれぞれ別の観点で立派な鞘に収まったその刀が斬れないことにじつは気づいてないのではないか、とも思う。小杉がその刀でこれ見よがしに斬りつけるのは、一般の社員や派遣社員に対してで、そのとき中越は心配そうに遠くから見守る。小杉の中越への報告も適当だ。それでも小杉の様子をみると千島と違ってEメールは送ることができるらしい。彼はメールの送信する時、あごを引いて必ずノートパソコンのエンターキーを右手の中指で強めに押す。どこと通信していることやら、フロア内かあるいは社外なのか、千島は訝る。けれど、その刀も斬る方が真剣と信じればなおのこと、斬りつけられる方は痛い。茶番でここにいる誰かが苦痛を受けるとしたら、自分も十分責任があるのは確かだとも千島は思う。そういえば、来週にはS社の札幌でセンター構築委員会が開かれることになっていると千島は橋口から聞いていたが、この状態でS社の人間だけでいったい何を会議することやらと思わざるをえない。小杉が何か提案するにしろ、通常ならR社側で何かオフィシャルなプロセスがあるのが普通ではないか、受託後についても議題の一つらしいが、と千島は自問を重ねる。そして外山や橋口は、小杉の「たいへんうまくいっている」という報告から、もうアルバイトの採用をはじめようとしていることを千島は橋口本人や山岸から昨日聞いた。これはすこし聞いておかなければなるまい、と千島は思った。「小杉さん、来週札幌で開かれるあの会社さんの構築委員会の件ですが、いったいどんなことを誰と会議するのですか。」と千島は唐突に一息で尋ねた。小杉は「心配しなくてよいよ。決まった方法があるのだよ。」と底がすこし震える声で言った。と同時に少し離れた所にいる中越の肩がぴくりと動き、その他数人の社員も僅かに手の動きが鈍り、皆同時に俯いて目を伏せ耳に意識を集中するのが彼の目に映った。これは小杉の予定はともかく、内容を知らないのはどうやらお互い様らしい、それにしても意志決定の丸く透明なボールはいったい誰の手にあることやらと千島は思い、先の事を考えた。自然なほどの間をおいて、中越が小杉をそっと呼んでワークスペースの方に消えた。
 次の週、S社の札幌のフロアで10人以上の社員を前に、小杉がフロー図でR社の人事業務の「現状」を講義した。