as a cinema

子供の頃から映画やテレビドラマを見るととても落ち着いた気分になることがある。それはとても密やかな感覚で言語化できたのは、つい最近のことかもしれない。二十歳くらいまでは現実と虚構はあくまで対の概念であって、何かの物事に対する真実と嘘もやはり、きれいに分かれるはずのものと疑わなかった。現実の嘘めいた響きに敏感になるあまり、ちょっとのめり込めない感触が確かにあった。けれど、現実の世界を見ると、ある物事に対して人間の心理の面では、現実の中にも虚構は一定の度合い含まれても仕方ないという気がしている。政治家が都議選前に「都議選の結果の国政に与える影響はどうか。」と聞かれて、「国政と地方政治は別物。」と正直に顔の一部を一定の時間硬直させながら答える様のように、言葉では全て表すことを拒否されることは実際の所ままある例なのだろう。
 高校2年の時だっただろうか、1学期の期末テストの一部に題名は記憶の奥底からでてこないけれど、森本哲郎氏の書いた紀行文が掲載された。絶対のプロセスと自信の元に回答したのに、穴埋め問題でペケがつき、教員室に談判にいった。文脈も論旨も、作者の特徴から言っても絶対Aだといいはる私に、その教師は「それは学校向けに販売されているもので、回答はBになっている。私も実際解いてみてそう感じた。そんなにいうなら原典にあたってみたら。」といった。まわりの教師もうんうんと頷く。その日の帰り、本屋でその本を買って参照すると案の定、Aの方が正しかった。翌日、それをその教師に直接見せると、「そうか。仕方ないな。じゃあ、加点してあげるけれど、他のクラスには言うなよ。訂正がたいへんだから。」と少しくぐもった声で言った。私はあきれて、「それならいりません。」といって帰ってきた。たかだか中間期末で、90点から94点になるくらいの点稼ぎを一生懸命にやってきたと言われたようでばかばかしくなったし、都合よく小分けに分断して解決したことにするやり方も気に入らなかった。その教師は、「俺の授業は受験では役に立たないけれど、人生では役に立つ。」と授業でよくいうことも、受験とそれ以外を安易に分けるようで浅いし、なによりあまり興味深いとは言いにくい授業で居直られたようで気分が悪かった。その出来事とあいまって、それ以降、その教師の授業は勉強以外の本や参考書を読むことにもっぱら使わせてもらった。授業をボイコットしてしまった理由をその教師は分からなかったかもしれないし、分かったとしても、何をそんなにこだわるのかという程度だったことだろう。けれど、田んぼと畑の中央にぽつんと立つ、風が構内まで直に吹き込んでくる陸の孤島のような少し埃っぽい男子校で友人も皆が割合ゆっくりしていてそれぞれ自分の関心のあることの方に向いていたから、「そんなことしちゃ先生かわいそうだよ。」なんて取りなす子もいず、若さゆえの徹底ぶりかもしれないけれど、一度できた川の流れはそうはかわらないとばかりに、結局卒業するまでその態度を続けた。受験勉強がんばってるんだと見られていたのかもしれないけれど。
 映画やドラマでは、かえって真実の純度のようなものが高くなる、と思う。現実がそうでないかもしれないという迷いやそうあってほしくないというある種の願望から生じる部分もあわせて現実であるのに対して、映画やドラマでは、時間や登場人物の人数といった枠が存在することが一因かもしれないけれど、出演者や舞台装置がそろって懸命にある状態であろうとする。もちろん私は演技の専門家ではないので、ひょっとすると演技派の俳優さんなどは、集中できていない様や、それほど気の進まない様まで上手に調節して再現してみせるものかもしれない。映画やドラマを観て気持ちが落ち着くのは、現実に含まれる少し消化されがたく心の底に積もりかねない虚構の姿と映画やドラマに含まれる真実の姿が、観ることによって観る人の中でうまくバランスするからなのではないかと思う。そしてその二つは少し似た姿をしているのではないかとさえ思う。
今日はせっかくだからドラマを観よう、と思う。