an expression

「感動した!」という言葉はある時をさかいにしてとてもたくさん使われるようになったのではないか、と思う。2001年5月、大相撲の夏場所千秋楽で前日の負傷を押して勝利し、優勝した貴乃花に対して、時の首相の小泉純一郎氏が「いたみに耐えてよくがんばった。感動した。おめでとう。」といってトロフィーを渡した。一国の首相が、角界の横綱に対しておくった言葉で、発言者も対象者も力強さや信頼を求められる立場であるので殊に機能するのであり、為政者の発言は本来令としての価値もももつとするなら、この場面で強めの漢語調のこの言葉を選ぶことのできるのも政治家の仕事であるだろうと思った。もっともその後(少なくとも私の感触では)この「感動する」という言葉が使われる頻度が増し、春に諸学生が遠足で訪れた動物園の小動物を見て「感動した」といってもそれはそれで結構ぴったりくるようにも感じられる。そもそもこの言葉自体が普通の言葉といってしまってはもともこもないけれど、一つの場面でよく機能したものは別の場所でも機能する普遍性をもつものなのかもしれない。といっても街角で街の人が「どうですか。」と突然聞かれて、「感動した」と答えるのは、カメラの前での戸惑いも含めて、ぴったりする言葉がないので「感動した」という強い言葉を使って押し切ってしまえという意思を感じることも多いけれど。
 それに対してアメリカのオバマ大統領が選挙戦で使った「チェンジ」という言葉を、日本の政治家が使う度に(すくなくとも私は)背筋が寒くなるのはなぜだろう、と思う。もともとがかけ声のようなものだからか、それとも語感に込められた哲学のようなものが日本語の狭間や発言者の内側から上手に運ばれてこないものか正確には分からない。けれど、知名度が必要らしいからと名前を連呼したり、改革の決意表明や人気の大きな鍵になりそうだから「チェンジ」と借り物のカタカナ言葉で叫ぶような演説は聴きたくないな、と思う。政策や実行力はもちろんのこと、オリジナルかつぴったりした言葉で現状や将来を定義する政治家の方にささやかな一票さしあげたいな、と思う。

追伸)7月31日の夕方からめっきり過ごしやすくなり、野原ほど緑豊かではないものの蝉の声や子供の遊ぶ声が聞こえる中、首もとまで癒される気がします。例年個人的には7月がもっとも暑い、と思うのは体が夏の暑さに慣れるプロセスなのかどうか。それでも涼しい方が好きなので、さいたま市の空を眺めて爽やかな雨の端緒がないかなと探してみたりもします。私は珈琲を一日に5杯は飲みますが、最近喫茶店に入ってもどこも(当たり前でしょうけれど)オリジナルブレンドなので何という珈琲豆とおいしいという味覚が高い頻度で合致するのかは謎です。