island~an extract from a hidden ship`s log~15.a calm lake and fishermen

船員が目を覚ますと、草原は早足で明るくなって、横になった体勢から頭をわずかに浮かせて空を見上げると、地平線の東の端の方から朝日がまさに昇る頃のようだった。船員は起き上がろうと、枕元を見ると、きれいな銀色の羽が小石で地面に留められていて、そのそばにはあの昨夜のひとのものであろうか、メモがそっと添えられていた。そのメモには、「この羽があれば、あなたの心はいつでもこの森に還って来られることでしょう。」とだけ流れるような字体と確かな筆圧で記されていた。船員はその銀色の羽を手鏡に取り付けると、大事に胸元にしまった。
 船員が路を歩き、小さな林を抜け、兎が胡桃の実を抱えている道標になにやら安堵を覚えてしばらくした頃、目前に小さな湖が現れた。その湖は人里からはすこし離れているらしく、春の若葉のようにつややかな水面に、晴れた空を涼しげに映していた。湖の上空には鳥がゆったりと舞い、湖のまわりには木々が生い茂っていた。船員は甲羅も鮮やかな亀が、木陰にいるのを目にして、そばに座って湖と遠くの薄雲の風景をしばらく眺めることにした。2,3時間も経ったころであろうか、路からがやがやと数人の男達が湖の方に向かってきた。男達は忙しそうに動き回り、何かの準備をしているようだった。船員はその中の一人の側までいって、「あなた方は何をなさっているのですか。」と尋ねた。その男は船員が肩に手をまわしたわけでもないのに、腕を乱暴に振ると、「見て分からないのか。漁をするところだ。邪魔をしないでもらいたい。」といった。船員が「しばらくここで見せていただいてもかまいませんか。」と言うと、男は「俺にそこまで決めるいわれはないな。」といって準備にかかった。男達はまず釣り竿を持ち出し、先に何か餌をつけては必死に動かしながら、釣りを始めた。しばらくすると、中ぐらいの大きさの灰色と白の縦縞模様のすらりとした魚が捕れたが、男は「この魚はきれいだ。この光沢は魚ではないかもしれない。湖に戻そう。」と言って、湖水に放した。船員は明るい絵の具を筆にとって、手元の紙に魚をできるだけ丁寧にスケッチした。続けて縦縞模様の魚が捕れると、男達は諦めたのか、一度岸の方に戻ってきたが、今度は大きな網を持ち出して、湖水に向けて投げ込んだ。だいぶ時が経って男達が網を引き上げると、すこし大きな桜色の魚が網の中に数匹いた。船員はその魚を見て、一生懸命スケッチした。先程の男が、「こんな魚はいるはずがない。優しい色をしているし、額も広くて清々しい。君もそう思うだろう。」と言った。船員が「愛嬌もありまうすね。」と答えると、男は頷いてまた湖水に戻した。桜色の魚が続けて獲れると、また湖水に放した。船員は、「競技を楽しんでいるのですか。」と尋ねると、男は「どういう意味だ。」といった。船員は「だって捕ったり、放したりしているじゃありませんか。」というと、男は「何をふざけたことをいっている。我々にとって漁とは生きることそのものであり、生きることは闘争である。私は自然とのそんな軟弱で文化的な交流などを望むような腑抜けた男ではない。私はこの湖を制するのだ。」といった。船員が「先程のも、今度の魚も前の魚も、皆とても立派ではありませんでしたか。」と尋ねると、男は「何度もいわせるな。あれは断じて魚などと認められない。自然の崇高な造形は大切に保護しなければならない。君もそう思うだろう。」と言った。船員が「私もそう思います。けれど、あの魚だけ保護しては、湖の生態系が崩れるじゃありませんか。あなたは他の魚をたくさん捕るわけでしょう。」と言うと、男は笑って「漁に際して冗談をいうものではない。湖のなか全ての魚や生き物や植物が見えるようなことをいうのはじつに不遜である。自然は人の智慧を超えるものであらば、人間の営みなど小さなもの。いや人の営みも結果的に常に自然の一部であるはずだ。よってあの生き物を保護し、他の魚を捕ることになんの悪いこともあるものか。」と言った。男は別の形の透明な網をもって、漁場に戻っていったが、しばらくしても望んだ魚が獲れないものか、戻ってきて、口の端を歪めて「これを使うしかあるまい。」とこんどはなにやら大きな装置を持ち出してきた。船員が「この器械は何ですか。」と尋ねると、男はうれしそうに「これは海の向こうのある国で開発された装置で、飛ぶ鳥を振動のような働きで撃ち落とす器械であるらしい。わたしはこれをこの湖の魚にも適用しようと思うのだ。」といって、その装置の大きな筒のような部分を湖水近くにもっていって、器械に取り付けられたイガイガのついた錨のような球体のようなものを湖水に投げ込むとスイッチを入れた。船員は頭痛を覚えて、眉間に皺を寄せて、わずかに顔をしかめると、男は何故か喜んで器械のレバーを引き上げた。船員は「私はこの器械にも詳しくないのですが、具体的には何をなさっているのですか。」と尋ねると、男は「私は何もしていない。見えないものは説明する必要も、ましてや証明する必要もないからな。よってこれから起こることはないことでもある。」と言っては、さらに器械のレバーを引き上げた。船員は益々頭痛がしたが、今度は顔に出すことはなかった。しばらくすると船員は慣れてきたのかさほど具合の悪さは感じなくなったけれど、それと対になるようにして、湖面の色がやや黄緑色に変化して、中央の方で渦が僅かに現れると、大きな魚が湖水の表面近くを泳ぐのが船員の目にも見えるようになった。男は「よし、時は今である。銛を撃て。」と言うと、荷駄のそばによって、大きくFという文字が記された麻布をとって、銛を取り出して、男達と湖水に向けてありったけ撃ち込んだ。船員は「あまり当たらないようですが、支障ないのですか。」と尋ねると、男はカラカラと笑って「君は漁というものを知らないようだ。魚などを狙っていて漁ができるものか。銛は魚に向けて撃つのではなく、湖の底に向けて撃ってこそ威力がでるものである。こんなことも理解できないとは。」と言うと、男達に向かって「さあもっと撃て。」と口の端を歪めながら叫んだ。しばらくして、顔を困惑と怒りで曇らせたような魚が一本の銛に刺さって引き上げられた。男は「これこそがこの私の認めるこの湖にじつに相応しい魚である。これを市場にもっていってこの湖随一の魚として売るように。」と男達に言った。船員は、「他にもたくさんの種類の魚がいるのではありませんか。」と言うと、男は「うるさいな。この魚でよいのだ。この魚はこの通り美しくもなければ、味も苦い。この湖を市場に出すことによってこの湖やこの湖の魚を好む客とこの湖を分かつことができる。わたしはこの魚を未来永劫、市場に流通させるつもりだ。」と言った。船員が「そんなことができるでしょうか。」と言うと、男は「苦々しい魚は他の魚を駆逐すると聞いたことがある。それにこの奇妙な魚によって市場自体を混乱させ、崩壊に導くこともあるいは可能であろう。」と言った。船員が首を傾げて「市場で魚を売れなくなったら、漁師であるあなたもお困りではませんか。」と尋ねると、男は「なんの。私の漁をする湖はここではないので全くかまわない。競争相手を駆逐するのは漁師の王道である。それに俺のは地産地消だから、よその地域にある大きな市場のことなど関係ないね。」と言った。船員は「あなたは市場がどこにあるのかご存知なのですか。」と言うと、男は「そんな見えないもの、分かる必要がないじゃないか。どんな市場であるのかも知りたくないね。わたしの務めはただ魚を捕ることだ。野菜を束ねて出荷することでもなければ、湖にきて花摘みをしたり、眉間に意識を集中して絵を描くことでもなく、ましてや市場について考えることでもない。何か間違っているかね。」と言った。男達が魚を荷台に載せて去ってまもなく、空から無数の雨粒が湖に降り注いて、湖面の色をもとの深い緑と碧が溶け合ったような色彩に戻した。