A subject of ...スマップ会見など20160226

 スマップの「謝罪会見」から、1ヶ月以上が経ちました。

ほんとうのことや気持ちが言葉として表明されなかったことはお気の毒というか、すこし残念なことでした。

 これではいつも”Idol(偶像)”ではなく、”Idle(遊んじゃってる)”と受けとられかねない、とまではいいたくありません。事務所をやめようが、謝罪しようが基本的には自身の選択。けれど、彼らがもし仮に「国民的アイドル」だとするならば、自分の内側から表現する、あるいは枠を超えるようなものがあるのが望ましい。アイドルが誰であるのかは本来ひとそれぞれであることでしょう。アイドルであり、歌手としても例えば、尾崎豊マイケル・ジャクソンレディー・ガガなどは(同意できるかはべつとして)表現することがあると思うのです。校舎の窓をたたきわる、盗んだバイクで走りだすといわれても、奇抜な衣装であらわれて甲高い声で話されても、妖しげでも、実際多少眉をひそめるのかもしれませんが、その心意気は聴く人のこころに響き、開放的な感じを与える。このようにアイドルが司るのは既存のカルチャーの変更。「ナンバーワンにならなくてもいい。そのままでオンリーワン。」という歌詞にも顕れるスマップの「ぬるさ」や「ゆるさ」とはある意味で対極にあるのです。経緯に関わらず、会見に際して(元々台本や筋書きがある仕事もあるといっても)国民的アイドルだというよい大人がなんだか黒幕の前の、あるいは観客の"Doll(操り人形)"に見える、では(劇場までも)価値を毀損しかねません。ここ数年、子どもたちは品質も玉石混淆の動画に見入り、大人たちはそれを気軽に楽しんでいます。それも自ら探すひとてまの行為だけでなく、真実さを感じる、臨場感がある、自由でゆらぎがあることとも関係がありそうです。ここぞという時は自分の言葉を紡ぎ、説明することが必要でしょう。表面的に「いままでのかたちでよかった。」と言っても、心理的、あるいは潜在的にがっかりしたひとが多かったのではないでしょうか。エンターテインメントとしてだって興がそがれる、おもしろみにかけると言わざるをえません。子供達もああいう大人になってみたい、と思うでしょうか。広告を依頼する企業側からしてみても、現在は役を演じてもらうというより、その人の人格や個性のイメージに期するところが大きいわけですから、今後考慮せざるをえないと思います。(看板は維持されても)長年業務を遂行してきたマネージャーの異動、退任によって、グループとしての意思決定機能や実行プロセスが混乱、低下、消えていると推察されます。慣れた場でも、基本的な目的と立ち位置を共有する。事前に内容の一部でも文書化して確認する。(それが時間的制約で無理でも)事前、事後に質疑応答をいれることなどが、文化的背景も多様な見方に対応するという点からも当然考慮されます。また、「国民的」という言葉は、国民的議論、国民的合意(コンセンサス)など多様性を内包するものは別ですが、使われ方次第、とくに迎合的傾向を持つものごとと結びつくと、「期待感」のような空気が醸成される一方、言及することが難しくなり、議論の質が低下する効果を生むことがあることにも注意すべきでしょう。いずれにしても今回の出来事は、他のいくつかの出来事とあいまって、子供達にも社会が閉塞した感じや硬直した感じを結果的に与えたことと思います。

 ひとであってもグループであっても、製品・サービスにしても、既存の枠組が変更されて、文化がつくられてこそ、需要が生まれる。社会やサービスの硬直化(あるいはその印象)は避けなくてはなりません。(多少のにぎやかさ、騒々しさは広義のコミュニーションの一環とうけとめて)コミュニケーションをやわらかくとっていく、ボトムアップ型であたらしいこともかんがえていくことが現在の私達にも必要なことであるのでしょう。