island~an extract from a hidden ship`s log.~16.a forest keeper

霧のような小雨があがり、空から薄日が差してくると、湖畔には湿った木々と土の香りが連なって、ひんやりと静まった空気を形づくった。船員が男たちが去った湖畔を見まわすと、湖畔の巨石に忽然とたつ木のそばに、ひとりの男が立っているのに気づいた。男は深い紅色をした小さな帽子をかぶり、翠色の長い衣を纏って、、体全体で木の陰を受けとめるように立っていた。船員は男に近づいていったけれど、男は目の高さにリング状の細い鎖の先端に小さな錨のような重りのついた大きな眼鏡をかざしながら、あいかわらず落ち着いて木を見つめているのだった。船員は男の後ろにしばらく佇んでいたが、男が一息ついて、背負っているリュックサックから、妙に丸っこいコーヒーポッドを取り出して、木炭で作った小さな囲炉裏のようなものかざしたのを確認してから、「こんにちは。」といった。男はそっと微笑みを返すと、「こんにちは。コーヒーをご一緒にいかがですか。今お湯を沸かしますから。」といった。船員は「喜んでいただきます。」と言った。男は頷くと、小さな動物の刺繍が重ねられたタペストリーを芝の上に敷いて、紫の縁取りをした麻の袋のから今度は山の嶺の図柄に王冠を模した鳥籠のような器を取り出して、その中から華やかな桜色の更紗に紫の刺繍が加えられた包みにくるまれた黄色いチューリップのような豆挽き器と木製の筒とスプーンとりだした。男はこの銀色の羽飾りのついた平たいスプーンで筒から豆を掬って、チューリップの花にそっと注ぐと、器の横につけられた船の舵に似た小さな木製の円いハンドルをまわして、豆をゆっくり、こりこりと挽いた。しばらくしてポットから湯気が立つと、男は三日月の印のついた橙色の器に珈琲豆を入れて、その上からお湯を円くゆっくりと注いだ。男と船員のまわりには芳ばしい香りに包まれた。船員は男から紺色に薄く緑色が重ねられたカップに注がれた出来立ての珈琲を受け取った。珈琲にはいつのまにかたっぷりの砂糖とミルクが溶けていて、一口くちに含んだだけで芳ばしく丸い風味が内側に広がって船員の気持ちを優しい位置に落ち着けた。船員は「あなたは先程、何をなさっていたのですか。」と尋ねた。男は「木を観ていたのです。」といって、先程まで見続けていた木をもう一度見つめた。船員が「何が見えるのですか。」と尋ねると、男は「この木の今の健康や気持の状態、希望や意思を感じることができます。とくにこの木は時々観ているので尚更です。」と答えた。船員が「どうやって観るのですか。」と尋ねると、男は少し笑って、「人と同じように、木にも、頭の頂点や目の黒い瞳とそれ以外の部分、眉毛、唇やあごの先、肩やお腹など、無意識に変動する要素があるのです。その要素が結ぶ像をとらえて仮説を立てることもその方法のひとつです。木の姿はこの地上においてほとんど共通であるとはいっても、この方法では初めてで全て見えるわけではありません。一定の時点で観察したものを、複数記憶してその木の標準的な像をとらえたのちに、現在の位置をとらえるのが普通です。」と答えた。船員が「今の状態で何か分かることがありますか。」と言うと、男は「鼓動が通常よりも幾分高いのが分かります。」と言った。船員は「他には何をみてとれますか。」と言うと、男は「枝ぶりの立ち上がりがすこし緩くわずかにぶれているでしょう。これはお腹の筋肉に訓練の余地がある時に現れることが多いのです。」といった。船員は「あなたはいつもそうやって観ているのですか。」と尋ねると、男は「いつもというわけではもちろんありません。周りの騒音や振動が強いときなどはとらえるのにちょっと時間がかかることもありますし、なにより他のことに集中している場合も感じとることは難しいようです。もっとも不意に心に響くこともあるわけですが。」と言った。船員は「あなたは観るだけなのですか。」と言うと、男は「木自身が、希望してくれるのならば、感じとったを木に伝えたり、場合によっては成長するお手伝いをすることもあります。」といった。男は「あの木を観て御覧なさい。」と言って湖の入江の方に視線を向けた。そして男は、「あの木の肩口に断絶が走っているでしょう。あの部分は少々危険かもしれませんね。」と言った。船員は首を傾げて「どうしてですか。」と尋ねた。男は「あの部分から悪いものを吸ってしまうのです。」と答えた。船員は「それはよいことではありませんか。大気を取り入れて、より清浄な空気を作るのは木の大切な働きではありませんか。」と言ったが、男は「もちろんその通りです。けれどあの種類の断絶の場合は、良いものも悪いものも、それ以外のものも等しく悪いものとして取り込む恐れがあるのです。断絶の上の方に繕ったような形跡があるでしょう。もっともらしい小さな蓋というのは外からの光を歪めて内部に暗闇を作ってしまうので、かえって危険なのです。」と言った。船員は「あなたはいつもそれを指摘するのですか。」と言うと、男は「いいえそういうわけではけっしてありません。自分から絶対に話さないことにしています。たとえ相手が木であっても、指摘に直面する勇気を準備するのはたいへんなのです。指摘の内容を受け入れるかどうか、どの程度受け入れるか、あるいはどのように受け入れるかはあくまで本人に委ねられるものだという前提もとても大切ですけれど。とくにあの種の断絶は指摘しただけで、無用の攻撃を受けかねません。」と言った。男は珈琲を一杯飲むと、「もっとも木の中には自分から歩いてきたり、私の呼びかけに穏やかに答えてくれる木もいて、そういう場合は私にもきっとできることがあるでしょう。自ら成長したい分野や関心のあることを選んでフィードバックを集める方がよほど楽で効果の上がる方法のようです。」と言った。船員が「あなたは木の育成に関してどんなことを考えているのですか。」と言うと、男は「木を育てたり、育つのを助けるためには木を愛でて、一緒に絵を描くことや、密な心配りと寛容に任せる部分が大切なのではないかと思います。いずれにしても私はみなの気持を充たすこの森の木達がとても好きなのです。」と少しはにかんで答えた。船員が「他に木を見てどんなことが分かりますか。」と言うと、男は「この木が直前にあの山側の木と話したことです。葉っぱの色合いがどことなく似ているのでしょう。物理的な距離にかかわらず気持ちが近いのでしょう。人でもその人の話し方や口調から、形が少々変わっていてさえも、直前に話した人の意思や思念がやんわり伝わってきたり、一緒にいると口調や会話のリズムが自然に似てくることと似ていますね。」と言った。男は今度は船員をしげしげと見つめて、「そういえばあなたは頬のあたりに南の国の人の面影がありますね。とても温かく懐かしい。」と遠くを見る目をして言った。男と船員はしばらく森を眺め続けた。