聞えるもの、聞く耳。

まだ子供だった頃、頭のいいひとたちはみな聞いたことそのものだけで瞬時に判断したり上手に批評できるのだといつのまにか思っていたのでした。
「リセプター」(受容体)とは、おそらく生物学由来の概念で、コーチングでも扱われています。これは、耳介や外耳や鼓膜や内耳で構成される耳そのものではなく、角膜や水晶体や瞳孔や網膜など多くの器官が作る目でも、体一面に分布する触覚でもなく、古くからある言葉に翻訳すると「聞く耳」、あるいは「情報処理プログラム」や「心のアンテナ」と言い換えても通じるかもしれないしれません。一定の信頼感の存在なしには、聞くことはじつはけっこう難しいようです。誰でも他の誰かから質問されて答える時などに、質問したひとのそばに特定の小箱のひとつがはじめからぱっくり口を開けていて、「ああそこにいれるつもりなんだね。この場合ちょっとその箱は遠慮したいのだけれど。」という気持ちになったことは(たとえ意識しなくても)あるのではないかと思います。極端な場合には、善意か悪意によるものかはひとまず別にして、その人はやっぱりそうだと妙に納得して、受け取った鳩を箱に押し込み、蓋をパタンとしめてガシャガシャ振ると、箱から鷹が出てきてあっという間にどこかに飛び立っていく様を少し離れたところから目の当たりにしてエッと思うことさえ時々ある。だからこそ(たとえ実際の距離が遠くても)情報や気持ちが本当に伝わったと感じることができたときに人は気持ちが充実したり、ほっとするのでしょうけれど。情報が一際屈折したり歪んだりする可能性の存在するケースの一つは相手や相手の話のなかの概念に対しての固定観念や「コンプレックス」が過度に存在する場合で、この時は自己防御プログラムが作動し、強力なフィルタで情報を除去したり、あらぬ方向に別のアウトプット(言動や行動)としてはじいてしまうことさえあるようです。固定観念やコンプレックスもある一定の範囲内ならば、通常のものの見方のやや歪んだ部分に過ぎず、害のある刺激が直接内部にはいるのを防ぎ、効率的に素早く判断したり、円滑に社会生活を送ったりするのを助けると(個人的には)思いますが、過剰に発達すると内部にレンズの光の届かない「陰」を作ってしまう恐さを感じます。そして固定観念やコンプレックスは無論、内部のこの陰の塊も、内部を時々省みないと少しづつ発達して情報を的確に受容、復元するのを困難にして、判断を誤る原因になり得ると思います(いつかこのテーマの周辺で何か書いてみたいと思います)。この意味である特定の情報のタグには二つの「kakudo」、受け取った側でそれを復元しえる確かさの度合い(「確度」)とどの方向(関係性)からより受けとる可能性が高いかという「角度」の記号が予め存在する気がしてなりません。
 閉じた場合の負の側面の一方で、リセプターを効果的に開くと今まで受け取れなかった情報が内部に入ってくるようです。私自身はここ数年ほど、コーチングやファシリテーションという言葉に会える機会がとても増えました。
 聞くことが必要な時には、特定の箱ひとつだけを用意するのでなく、すこしエネルギーを消費しても、テーマはもちろんのこと、価値観や文化的背景や動機や姿勢や振る舞いなどたくさんのボックス(コーチングでは「リスニングチャート」)を準備して話を聞きたいといつも思っています。

追伸。もう1ヶ月ほど前から、私の腕時計の秒針はきっかり4秒に一度、4秒分まとめて動いています(4秒針?)。はじめは少し驚きました。すこしもどかしいのですけれど、どうやら時計の故障ではなさそうです。自分の放つ磁気の影響だったりして。