with emotion

二十歳を過ぎるころまでは「冷静なものの見方」というものが言葉通りに存在して、たくさんの人がそれを駆使して問題を解決したり、ときには「あつい」議論をしていると心のどこかが思っていたようです。これは地理や歴史ですら点にならない部分にのめり込みがちで、感情が先行しやすい自分の十代の気分をうまく中和して、すこしでも勉強の方にエネルギーを向けようとする自分なりの工夫であったのかもしれません。けれどいまでは感情と理性を分断することは表層的であり、「冷静なものの見方」とは、その場やその背景(歴史)、各プレーヤーの気持ちや動きを捉えることであり、結果(アウトプット)を誰かに伝える際にそのためのインターフェイスとしておだやかな表現がとられることもあるように感じています。そして喜怒哀楽をはじめとした感情の働きによってはじめて「見たい」「知りたい」といった方向性を獲得し、「問題意識」が生まれて深化していくのではないかと思っています。ただ理性的に冷静に何かを見ようとしてもそれは乱視のぼやけた視線で写真を眺めたり、好きなチームでもなくそんな選手もいないサッカーの試合を観るような曖昧で表面的な思考の動きにしかならないような気がしてなりません。

 3月7日(土)Jリーグの09年シーズンが始まりました。鹿島アントラーズ浦和レッズ戦をテレビで)観戦しました。画面を通しても鹿島・浦和のサポータで埋まる球場の雰囲気は壮観。私は住んでいる地域にある浦和側に当然かなり感情移入して観ていました。スコアは2−0で鹿島の順当ともとれる勝利。ボールという獲物をゴールという囲いに追い込んでいく狩りのような躍動感もその過程としての連動性の美しさも残念ながら鹿島のものであったようです。相手に襲いかかるような獰猛さを心のすみっこで期待している浦和サポータとしては今の状態は野性味に欠けて歯痒い。けれど、監督もエンゲレスさんからフィンケさんにかわった浦和はまだ再構築中であるなか、カメラワークの妙や相手の鹿島のプレッシングの密度の高さを考慮しても昨年と比較してボールやゴール前の一定の領域内の選手の人数の増加といった変化は素人目にも感じられました。サッカーそのものやチームにとって大切にすべき「概念」(コンセプト)に価値を認め、その土壌で作物を育てる上では、結果としてボールを奪取されるような負の部分が先に表にあらわれ、多少うまくいかず試行錯誤してもそれは過渡期的な現象であり、もっと苦しんでさえも試練ととらえた方が建設的であるのかもしれません。サッカーの専門家でもなくこんなことを書くことには一抹のおこがましさも覚えるのですが、作家の白洲正子さんはエッセイ「陶芸のふるさと」の中でこう書いています。「・・・誤解を恐れずいうならば、(外国のものに比べて)日本の芸術一般には、素人的な要素があり、それが作品に余裕を与えるとともに、使う人たちを参加させる余地を残している。不完全な言葉がより合って連歌を作るように、不完全な道具が集まってお茶の世界を形づくる。それが日本の伝統というものだ・・・」。サッカーはプレイという点では「場内」で一定の完結を示しているとは思いますが、「場」自体を形成したり、微妙に作用する様々なファクターをプロジェクトやもっと広く文化という面で捉えるればすこしくらいの小言は感想としてサポータにも許されてもよいのではと思うのです。サッカーをじっくり、楽しく観るためにも。

追伸)このブログはお手紙形式であり、はてなさんの方針同様、ブログでの商用目的のアフィリエイトにはわたしもすこし違和感を覚えるのですが、引用した文章の原典やコーチング関係の書籍については公正を期すため別画面別枠でそっとリンクを設定するのを検討しています。




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