A strange street nearby the cafe.1.watchmakers.

ジュリエッタは秋の休日のある日、お気に入りの青いワンピースを着て、公園のブロンズ像と四角い枠がシンプルに重ねられたオブジェの前を通って、自宅のアパルトメントと駅の間にあるカフェにいつものように出かけました。カフェの中は、木目も鮮やかな木材で覆われていて、中央の球形の天蓋や壁をやわらかに照らすランプの橙色の光とあいまって、とても休日らしい、賑やかな雰囲気が漂っていました。それでもまだ朝の余韻を残したすこし陰のある店内に、さらに明るい光が、丸い窓から流れ込んで外が晴天であることが分かるのでした。ジュリエッタは、入り口から少しなかにはいったところにあるカウンターでカプチーノとクロワッサンを注文すると、中二階の一角にある席に掛けることにしました。ジュリエッタの記憶では、果たしてこの席がいつもこの場所に用意されていたものか、はっきりしないのでしたが、背後の壁と右隣りの窓の間に白いソファがすっぽりおさまって、とても居心地がよさそうなのでした。ジュリエッタは白と銀の糸を縒り合わせてつくられた布のかかるふかふかしたそのソファに腰掛けて、愛用の黒の手帳を取り出すと、四角い升目のその紙面に図形と古代文字をしばらく書き込んだのち、ゆっくりと食事をとったのでした。ジュリエッタがコーヒーの香りの中で秋の陽ざしがさす窓の外をふと見ると、カフェの丸い窓の向こうに、見慣れない通りがあることに気づきました。その通りはこの街のどの通りともかわらずやはり石畳みでできており、通りの両側にはこれまた北と南の境目の地方によくある石造りの頑丈な建物が立ち並んでいました。ジュリエッタはふと興味を覚えて、食事を済ませると、カフェの先程はいってきた方とは別の普段みかけない扉をみつけて、そこからその通りにでることにしました。ジュリエッタは外に出ると、カフェの中から見た風景とさほどかわらない通りが目の前に広がっていたのでしたが、そのどれもうっすらと輪郭が滲んでいるように感じられました。ジュリエッタはすこし歩き、時計店と見受けられる大きな時計が掛かった店の前まで来ると、鞄の中に数日の間入れたままにしてあった時の止まった腕時計があることを思い出して、その店に入ることにしました。ジュリエッタがカランカランと鳴る扉を開けて店内に入ると、店内は壁一面に時計が掛けられており、壁のもとの棚の中にも、懐中時計や腕時計がぎっしりと陳列されていたのでした。ジュリエッタはその彩り、形、大きさも多様な時計に溢れた空間が、普段見慣れた街の時計店の光景とは異なって、どこか不思議な趣きのあることに気づきました。ジュリエッタは、どこかなつかしさを覚えながら、ひとしきり店内を見まわしたあと、店の奥まったところにある机に「時計屋」が座っていることに気づいて、そちらに歩んでいきました。時計屋はなにか書きものをしていたようでしたが、ゆっくりと目をあげてジュリエッタの方を見ると、「いらっしゃい。」と落ち着いた声音で言いました。時計屋の机の上には、梨の紋様を象った蓋のある懐中時計があって、文字盤のところに「ベル調整完了」というシールが貼られていました。机には、舶来の柿の木造りのやわらかくまるい曲線を描くオルゴールの箱、銀色の四つのリングが組まれた智恵の輪、美しい装丁の施された厚みのある辞書ものっていました。ジュリエッタはすすめられるまま、時計屋の前の椅子に腰掛けて、「この時計店はどこか不思議ですね。」と言いました。時計屋は優しく微笑んで、側のひときわ光をはなつ綺麗な意匠が施された中くらいの大きさの時計を見やって、「よくご覧ください。」と言いました。ジュリエッタは、その時計の金色の秒針が右回りにまわり、そればかりか文字盤の数字も普通の時計とはまるで逆さに記載されていることに気づきました。時計屋は「気づいたようですね。全ての時計がそういうわけではありませんが。」とやはり、微笑して言いました。ジュリエッタは、まわりの時計を見回して、逆向きの時計には銘が施されていることを見て、「ほんとに不思議ですけれど、なにかのレプリカのようなものでしょうか。」と言いました。時計屋は、『私共のこの店は正真正銘の、いわば真の時計屋でして。この時計たちを私たちは「鏡時計」と呼んでおります。この鏡時計はレプリカのような副次的なものでは無論なく、宙空にある、私共がお世話したり、また修繕した時計たちの現在形の写しなのです。」と言いました。ジュリエッタはいつのまにかだされた檸檬入りの紅茶を飲みながら、時計屋の話をどこかうわの空で聞いていましたが、時計屋はすこしの間、時計の不思議について静かに話しているようでした。ジュリエッタの紅茶が半分ほどなくなるのを待って、時計屋は思い出したように「さて貴方の御用向きは何でしたかな。」と言いました。ジュリエッタは「この腕時計をきれいに直してほしいのです。」と言って、鞄の中から腕時計を取り出しました。時計屋は眼鏡を掛け直すと、その腕時計を手にとってはじめは遠くを見るような目をして眺めていましたが、机の上のやわらかな布地に腕時計をそっと置きました。時計屋は広がりある書体で記されたタイトル書きと栞をいくつかはさんだ美しい装丁の辞書にそっと手をのせて、「さてお客様はこの時計をどんなふうに仕上げてほしいのですかな。」と言いました。ジュリエッタは幾分首をかしげて、「きれいに直してほしいのです。」ともう一度言いました。時計屋は微笑んで「当店ではじつはお客様の要望と当店のサービスとを照合、精査するまでは、お預かりはできても。お引き受けそのものは差し控えております。」と言いました。ジュリエッタは「もう少し説明していただけますか。」と言いました。時計屋は『私共は時計への気持ちを大切にするとともに、そのためにも針をもう一度動かすことは「復元」サービスで、それ以外の各種ご要望は、内容と時期にあわせて各種オプションで承っております。というのも修繕や修理、更新というのは案外難しいものでして。依頼するお客様も、それから私共の時計屋も、もちろん時計を目にする誰もが、その手際に色々な思念をありったけ詰め込んでしまうもののようなのです。だから、この魔法の時計屋にとって時計そのものを扱うことはまことにたいへんなのです。』と言いました。ジュリエッタは「難しいことはよくわかりませんが、この腕時計は無論私にとってはとても大切なものです。」と言いました。時計屋は頷いて、「大切なものであればこそ、この時計についてあまり語らないことも奥ゆかしいなどと言ったことではなくて、自然と縮こまっていることでして。あなたはこの時計を大事に思えば、私どもにそれを話してください。無言であることは、時計を虚空の流れに委ねたこととかわらないのかもしれません。」と言いました。ジュリエッタが時計について考えていると、時計屋は「ああそれともう一つ、時計の針の止まった時間そのものはもとに戻らないこともご了承いただけますね。ここに同意書がございます。」と言いました。ジュリエッタは「それは当たり前のようにも聞こえますが、同意書までとるとはいったいどういうことですか。」と言いました。時計屋は、「お客様の中には、時間がふり積もるものであることを忘れている方がいらっしゃるものでして。つまり、針を付け替えても、表層にだけ飾りを施しても、時間そのものは飾り立てることはできないということをお伝えしたかったのです。」と言いました。